舞台美術家 土屋氏に聞く。三島由紀夫×劇団四季『鹿鳴館』の世界
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舞台装置を担当した土屋茂昭氏に、三島作品の最高峰といわれる『鹿鳴館』の舞台美術について話を聞きました。
1983年、ミュージカル『キャッツ』の美術デザインを担当して以降、劇団四季の舞台装置デザインや、専用・仮設劇場建設企画等を数多く手がけてきた、日本を代表する舞台美術家 土屋茂昭氏。『鹿鳴館』の舞台を作るにあったって、最初に演出家からの要望が2点あったといいます。
「多重構造で作りたいということと、ダンスは舞踏会を見せないということ」
土屋氏は、その要望に沿って、いくつもの舞台装置デザインを考案。何度も演出家との打ち合わせがなされ、三島由紀夫文学の世界観は、立体化されてゆきました。
この舞台の装置の特徴は、1・2幕の日本庭園と3・4幕の鹿鳴館とに、大きく分けられます。 |
影山伯爵邸のひろい庭内の小高い丘の上にある茶室潺湲亭。手前は細流れがあり、前栽の菊、飛石、蹲踞(つくばい)、筧(かけい)などがある。茶室の下手から、丘のふもとに裏門と門番小屋が見下ろされ、上手からは彼方に日比谷練兵湯が見渡される心持。飛石づたいの道は下手から茶室のぐるりを通って、上手へ伝っている。茶室の軒には潺湲亭という古い額がかかっている。
(三島由紀夫 『鹿鳴館』より) |
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三島の戯曲を見ると、1幕目冒頭のト書に舞台となる影山伯爵邸について、大変丁寧で事細かな描写がなされています。1956年の文学座による初演以来、1・2幕の舞台装置は、伊藤熹朔氏が手がけた文学座、新派の舞台装置に代表されるように、三島の描いた茶室潺湲亭とその前に広がる日本庭園が忠実にデザインされ、表現されてきました。
「まず、ト書や従来の舞台装置に囚われず、発想してみよう」
ただ、そこに三島が描こうとした世界観は大切に。土屋氏の模索は、台本を読み込むことから始まりました。
茶室の室内と前庭で進んでゆく物語。この茶室には名前がつけられており、潺湲亭(せんかんてい)という。なぜ、潺湲なのか。土屋氏のプロフェッショナルな視点は、潺湲という言葉に引き寄せられてゆきました。
「潺湲(せんかん): さらさらと水の流れるさま(大辞泉)」
なぜ、三島は「潺湲亭」と名付けたのか。ト書の部分には、手前に小川が流れる様子も描かれている。
ト書に囚われず、それでかつ、この世界観を表現する方法はないだろうか。読み込んでいくうちに、土屋氏はあることに気がつきます。
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季子「……ごらんなさい。(客席を指さして)このひろいお庭の木という木、お池の光り、母屋のゆったりとした屋根のひろがり、……それからお池の中の島の姿のいい小さな松、どの隈々にも仕合せが息をひそめて、住んでいるように見えるじゃないの。(やさしく)お前の悲しそうな顔は、この眺めには似合いませんよ」
顕子「でもお母さま、悲しい気持ちの人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?幸福な人には景色なんか要らないんです」
(三島由紀夫 『鹿鳴館』より) |
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実は、潺湲にはもう一つの意味が。「涙がしきりに流れるさま(大辞泉)」を表す言葉でもあるのです。その意味と、季子と娘の顕子との会話から発想した土屋氏は、三島のト書にはない板絵を背景にしました。そして、季子の台詞の中にある日本庭園の様子を全て、その板絵に収めたのです。
小川・菊の花、松の見事な枝ぶり。全てがそこに描かれ、全てがそこに閉じ込められている。“閉じ込める”。そうすることで、朝子や顕子たちの境遇を象徴的に示したのです。
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三島由紀夫の戯曲には、舞台となる鹿鳴館の内装についても、ト書に詳細が描かれています。
3幕・4幕について土屋氏は、約100個の小さなデザイン画案を考え、そこから20個ほど選び出し、少し大きなデザイン画を描いたといいます。そして、その中からさらに10個ほどのデザインを選んで模型を作成し、演出家と話し合いながら、今の装置を作り上げました。そのデザイン画の数の多さからも、この舞台美術に込められた思いの深さが伝わってきます。
人間の多重構造を示す舞台に。そこに登場する人物の多重構造と、空間的な多重構造を。演出家からの要望を受けた土屋氏の着地点は、そこにありました。
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「高低だけでなく、歪められたひずみを用いた舞台にしよう」
隅々まで見ると、舞台上の全てが曲線になっています。朝子たちが外から入って来るところと舞踏会の客たちがダンスに向かうところは同じになっているのですが、その歪みの効果で、エッシャーの「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」のように、観ている私たちは、別のところから出入りしているかのごとく錯覚してしまいます。
「ひずんだ状態で絡み合っている人間の様を造形にしていく作業でした」
その“ひずみ”をどう立体化するのがよいのか。描かれたデザイン画は、その最適を探して、100枚以上にものぼったのでした。
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「全てのエレメント(要素)が、鹿鳴館にあったもので形成されている。徹底的に“鹿鳴館”にこだわってやろうと思ったのです」
土屋氏の舞台装置の魅力のひとつには、そこに込められた意味の深さがあります。旺盛な好奇心、徹底したこだわりから、膨大な資料を調べ上げ、実際に現地へ足を運んだという土屋氏。そのデザインは、細部に至るまで、全てがまさしく“鹿鳴館”になっています。
1940年に解体された鹿鳴館の部分が、いくつか分散され現存しています。
東京大学工学部建築学科には、階段の一部と壁紙が保存されています。その階段の柱を、土屋氏は、階段の最も手前にある支柱として、大きさまでそっくりに舞台上に再現しました。階段手すり下に施された菊の彫刻も、鎌倉彫で残された部分を模して作成。また、A3ほどの大きさの金唐紙の壁紙は、全く同じデザインのものを作り、上手奥の壁紙として使用することに。
舞台上で光を放っているシャンデリアも鹿鳴館と全く同じ。こちらは、解体時に売却され、灯明寺(東京都江戸川区)に納められたものを忠実に再現。さらに細かく見れば、舞踏会のシルエットが浮かび上がる後方の大きな窓も、映像を映しだすために寸法こそ大きくしてあるものの、その対比バランスは、実際のテラスと下部のデザインに至るまで、ジョサイア・コンドルの手による実物と同じに作られているのです。
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最後に、もっとも気になった部分について、土屋氏に質問してみました。
あの、最も手前の、プロセニアム・アーチとなっている額縁のようなデザインも、当時の何かからヒントを得られたのですか。
「額縁だけど、何の額縁だと思う?」
そのヒントは、やはり台本の中にありました。1幕目の、朝子が鹿鳴館の舞踏会へ出ることを決意する場面での、清原との会話に、以下のようなくだりがあります。
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朝子「(愛らしく)それとも私の洋装はおきらい」
清原「想像することもできませんね。よくお似合いかもしれんし、また……」
朝子「猿のようかもしれませんしね」
清原「美しい猿もいたものです」
朝子「滑稽だこと、伯爵夫人の猿なんて!でもよろしゅうございます。今夜私はあなたの仰言るその猿になります」
(三島由紀夫 『鹿鳴館』より) |
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「猿になる」とはどういう意味なのか。鹿鳴館の舞踏会は、西洋から猿真似で滑稽であると揶揄された。それと何か関係があるのだろうか。
「ビゴー(※)という画家を知っていますか?」
※ジョルジュ・ビゴー:1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌「トバエ」を創刊した。日清、日露戦争や鹿鳴館を扱った作品は、教科書などにもしばしば掲載され有名である。
幕末から明治にかけて活躍した風刺画家ビゴーの描いた鹿鳴館は、その正面玄関にある鏡を見ている洋装の夫婦の姿。けれども、よく見ると、鏡に映っているのは、人間の姿ではなく、猿が洋服を着た姿であったという皮肉なもの。
鹿鳴館外交は、当時「猿の踊り」と内外から批判を受けて短命に終わりました。土屋氏は、台本の中にある「猿」という文字に着目し、この表現は、ビゴーの絵から来ているのではないか、と考えたのです。
ビゴーの描いた、鹿鳴館の正面を飾っていた鏡。それは、今、霞ヶ関ビルの中にあります。鹿鳴館は、1890年に宮内省に払い下げられ、華族会館として使用されました。鹿鳴館の歴史をもう少し見てみると、鹿鳴館を譲り受けた華族会館は、1927年、霞ヶ関に場所を移します。1967年には、その土地に三井不動産が建てた霞ヶ関ビルの36階に移転し、現在に至っています。
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改名し霞会館と呼ばれているその会館の一室にある、鏡。土屋氏は、その鏡の縁とまったく同じデザインで、舞台を囲ったのです。客席からみる私たちが、まるで鏡を覗きこんでいるかのようなプロセニアム・アーチ。そこに映し出される姿とは。
「そこに映っているのが日本の姿なのです」
1・2幕目の日本庭園では言葉が持つ二重構造を表現し、3・4幕目の鹿鳴館では、全てのエレメント(要素)を、当時の鹿鳴館にあったもので形成し、徹底的に“鹿鳴館”にこだわった舞台装置に。土屋氏は言います。
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「空間造形的には演出家の要望と台本から、デザインのエレメントは本物から」
あらゆる方向から、三島由紀夫の戯曲を切り取り、立体へと表現してゆく。演出家 浅利慶太と舞台美術家 土屋茂昭。2人のプロフェッショナルな熱意の結晶としての舞台が、そこにはあります。
まずは、劇場で、土屋氏の尽きない探究心と想像力を、ぜひ間近で、そのディテールに至るまでを確認してみて下さい。
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