鹿鳴館
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はじめに ストーリー 人物相関図 三島由紀夫略歴 三島由紀夫と浅利慶太 時代背景 舞台美術 キャストスタッフ
時代背景


『鹿鳴館』に登場する貴婦人たちは、美しいドレスに身を包み「新しい時代」を楽しんでいるようです。
しかし、「鹿鳴館時代」とも称される1880年代は、明治維新以来の社会の矛盾がはっきりと姿を現し始めた時代でもありました。劇中で語られる世相についていくつかのキーワードとともにどのような時代だったかを見ていくことにしましょう。
社会不安のひろがり
1886年(明治19年)5月、長崎でコレラが流行し、大阪、東京、さらには北海道まで広がり全国で10万8千人以上が亡くなったといわれ、このことは劇中でも触れられています。
全国の農村では地租の重税の負担、デフレ・不況により農民が困窮し、土地を持たない小作農に転落する者や、職を求めて都市部に流入する者が現れました。
西洋の進んだ文明を享受し新しい時代の到来を喜んでいる人々がいる一方で、病気や貧困に苦しむ人たちがいたのです。
自由党の過激化
民撰議院設立を求める自由民権運動の盛り上がりの中、1881年(明治14年)に板垣退助を総理として自由党が結成されました。
たびたび政府批判を行う民権運動家に政府は「保安条例」「集会条例」など弾圧を強め、自由党内部では、圧制政府を打倒しようとする急進派と、個々の具体的な政策により政府と競い合おうとする穏健派に二分されていきます。
全国各地の農村の窮迫は自由民権運動にも影響を与え、自由党の急進派と結びついて直接行動に訴える者も現れました。1882年(明治15年)ごろから、自由党員や農民が蜂起する騒擾が続き、統率の自信を失った指導部は解党を決定します。
不平等条約
幕末の混乱期を乗り越えた明治新政府にとって、旧幕府が欧米列国と結んだ不平等条約の改正は緊急の課題でした。
関税自主権の欠如によって国内産業界は壊滅に近い打撃を受け、明治新政府の財政は逼迫していました。岩倉具視に始まり歴代の外務卿が交渉にあたりましたが列国の反応は冷たくはかばかしい成果を挙げることができませんでした。
政府当局者は次第に条約改正には国家的な取り組み、すなわち日本全体を開化させヨーロッパのような文明国になったことを示すことが必要条件であると考えるようになったのです。
鹿鳴館の建設
外務卿(のちの外務大臣)井上馨(かおる)は条約改正交渉に臨み1882年(明治15年)東京に列国代表を集めて予備会議を開きましたが、日本に対する反応は相変わらず強硬なものでした。社会全体の近代化を強力に進め、それをはっきりと目に見える形で諸外国に示すことは緊急の課題となったのです。
1883年(明治16年)日比谷に外国人迎賓館としての鹿鳴館が開館します。イギリス人コンドルの設計による西洋館は、外国人の目からは「まがい物」の奇妙な建築であり、一般国民の目からは欧州かぶれの贅沢なものとうつっていました。
夜ごと政府高官が夫人同伴で洋服に身を包み、舞踏会を行う。今までの日本にはまったくなかった風習に世間の注目は集まり、成果のあがらない不平等条約改正交渉への苛立ちと合わさって政府批判が強まっていきます。
近代化を進めれば進めるほど国民の自意識は高まり政府への反発が起こる。明治政府はどうしようもないジレンマに直面せざるを得なくなっていきます。
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Photo by 山之上雅信、上原タカシ