
幕末の混乱期を乗り越えた明治新政府にとって、旧幕府が欧米列国と結んだ不平等条約の改正は緊急の課題でした。
関税自主権の欠如によって国内産業界は壊滅に近い打撃を受け、明治新政府の財政は逼迫していました。岩倉具視に始まり歴代の外務卿が交渉にあたりましたが列国の反応は冷たくはかばかしい成果を挙げることができませんでした。
政府当局者は次第に条約改正には国家的な取り組み、すなわち日本全体を開化させヨーロッパのような文明国になったことを示すことが必要条件であると考えるようになったのです。 |
 |

外務卿(のちの外務大臣)井上馨(かおる)は条約改正交渉に臨み1882年(明治15年)東京に列国代表を集めて予備会議を開きましたが、日本に対する反応は相変わらず強硬なものでした。社会全体の近代化を強力に進め、それをはっきりと目に見える形で諸外国に示すことは緊急の課題となったのです。
1883年(明治16年)日比谷に外国人迎賓館としての鹿鳴館が開館します。イギリス人コンドルの設計による西洋館は、外国人の目からは「まがい物」の奇妙な建築であり、一般国民の目からは欧州かぶれの贅沢なものとうつっていました。
夜ごと政府高官が夫人同伴で洋服に身を包み、舞踏会を行う。今までの日本にはまったくなかった風習に世間の注目は集まり、成果のあがらない不平等条約改正交渉への苛立ちと合わさって政府批判が強まっていきます。
近代化を進めれば進めるほど国民の自意識は高まり政府への反発が起こる。明治政府はどうしようもないジレンマに直面せざるを得なくなっていきます。 |