鹿鳴館
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はじめに ストーリー 人物相関図 三島由紀夫略歴 三島由紀夫と浅利慶太 時代背景 舞台美術 キャストスタッフ
三島由紀夫と浅利慶太
三島由紀夫と浅利慶太には、劇作家と演出家として、また時代を牽引する芸術家同士として、親しい交流がありました。

浅利の三島戯曲の初演出作品は『喜びの琴』。しかしこれは、三島氏が所属していた文学座を離れる原因になった、因縁の作品でした。

1963年、文学座は、三島氏が彼らのために書き下ろした『喜びの琴』の上演を拒否。既に稽古が始まっていたにもかかわらず、思想上の行き違いを理由に上演中止が決定されたのです。その結果、三島は同調した俳優たちを引き連れ、文学座を脱退、劇団NLTを結成します。これが「喜びの琴事件」です。

一方浅利はこの『喜びの琴』を自身が経営に参画していた日生劇場のプロデュース公演として取り上げることを決意します。
《作家にとって作品は、生みの苦しみの末に手にした赤児のようなものである。怒り狂った三島さんだが、何かの瞬間に実に寂しそうな顔をする。見るにしのびなくなった。それと私はこの作品を面白いと思っていた。そのため「もの好きな奴だ。好きこのんで火中の栗を拾わなくても」という視線を受けつつ、この作品の演出を引き受けることにした》
(浅利慶太「時の光の中で」文藝春秋刊より)
こうして始まった三島氏と浅利の深い交流。
2005年に行われた『鹿鳴館』製作発表会ではエピソードの数々が浅利の口より語られました。

《三島さんは新作を書かれる時には帝国ホテルの旧館に篭るのがお好きでした。ちょうど向かい側にはその頃私が役員を務めていた日生劇場の役員室があり、必ず「今から書き始めるぞ」と電話がかかってきます。

「それはご苦労様です。頑張ってください」
「できたら読みたいか」

ここでの返事が大切で「いいえ」などと言うと大変なことになりますから「ぜひ読みたいです」こう言います。すると1週間後くらいにへとへとの声で電話があります。

「1幕はできた。来るか」と。
そこでお部屋に伺うんですが、少し意地悪をして、電話があったのは昼ごろなのに夕方に出かけるんです。そうすると三島さんは白いタキシードのような正装で、テーブルに原稿を置いて憔悴しきって待っていらっしゃいます。

「貴様、今まで何をしていた!」
「あれ、いつ来てもいいと仰いませんでしたか」
「それは言ったが・・・よし、読め」

そして読み始めますが、私に原稿を読ませているときの三島さんは、初めて男性の前に全裸をさらした処女みたいに緊張しているんです。読み終わってふと顔を見ると、顔面蒼白で「どうだ」とおっしゃる。そのとき、言うことは一つしかありません。

「素晴らしいですね!」
つまり私は空中給油機のようなもの。こうしてエネルギーを補給して2幕を書き出されるんですね》

《三島さんはクリスマスイブに必ず友人をご自宅に集めてパーティをされるんです。たまたま二階の片隅で安部公房さん、奥野健男さんと話に熱中していたところ「三島さんの作品はどう、演出家として」と聞かれました。「三島さんは柿の木なんですよね、甘柿と渋柿がなる。僕は渋柿ばかり当たる」つまり傑作と駄作を交代で書く、というように答えたところお2人は大爆笑されましてね。

そこに三島さんが通りかかって、話の輪に入りたがったんです。それで安部さんが「今浅利君が君のことを柿の木だ、って。甘柿と渋柿が交互になる」とおっしゃったところ、三島さんの顔色がさっと変わりました。

「何言ってんだ貴様!」と怒るわけです。

そのときすぐ「すみません」と言えばいいものを、少々酔っていたせいもあって「世界の作家で傑作だけを書いて死んだ人は一人もいないんですよ。あなただって少しくらい駄作を書いたっていいじゃないですか」と余計なことを言ってしまいまして。半年くらい口をきいてもらえなかったでしょうか》

 この他、三島氏と浅利のさまざまな交流のエピソードは、前述した『時の光の中で』に詳しく記されています。時に火花を散らせながら激突し、時に誰よりもその心情を理解しあった、2人の芸術家。2人の時代を越えたコラボレーションは、どんな『鹿鳴館』を創造するのでしょうか。


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Photo by 山之上雅信、上原タカシ